海津城外郭城砦群4

鷲尾城(千曲市倉科)

鞍骨城砦群の最南西端の尾根先端にある城である。
 北には唐崎城のある尾根が見え、水田地帯を挟んで西に屋代城が見える。
 屋代城との間に上信越自動車道が通り、南西の山の上に森将軍塚古墳が見える。
  城には尾根末端の大日堂から登る。車で行くならやや西のゲートボール場北側の駐車場が良い。
 尾根上の突端部に主郭部があるが、大日堂からの登り道は急傾斜であり、きつい。
 しかし、道は整備されており、藪の中を突破するようなことはない。

  麓の標高が360m、主郭部が520mということなので比高は160m。
 ここまで顎が上がりながら20分程度、急坂と格闘。
 すると頂上付近の木々の間から、石垣が。思わず感嘆の声が出る光景である。
 本郭とその南の腰曲輪は完全に石垣つくりである。

 石垣の高さは2.5mほどの所が多いが、本郭の東側は5m以上もある。
 それでも結構崩れているようであり、郭の下には石垣の石が転がっている。
 石垣の石は風化して白っぽい石であり、石垣全体も白っぽい。
 城の石垣と言えば、古色蒼然といった黒っぽい感じのものが多いが、ここや竹山、霞などのものは白っぽく、石材の違いによるイメージの違いが面白い。
 石も板状の細長いものを積んでいる。
 本郭の虎口は南側と北側にある。本郭は周囲を石塁で囲まれ、北東側が一段と高くなっている。櫓台でもあったのであろう。
 北側の虎口はこの高まりを西から回りこむように下りていく。
 鞍骨方向に向かう尾根は北東方向に延びており、本郭の北東下に巨大な二重堀切がある。
 斜面は竪堀となる。35mほど行くと今度は三重堀切がある。規模は小さい。普通、城域はここまでと思うであろう。
 この先には特に何かがあるとは思えなかった。
 倉科将軍塚があるが、ここは物見程度ではないかと思っていた。

 三重堀切を過ぎると登り道となる。20mほど登ると平坦地に出る。 
 その東に巨大な円錐台が迫る。高さは10mはある。これが倉科将軍塚である。
 登ってみるとでかい。ここの標高は550m、本郭より30mほど高く、水平距離は200mほど離れている。
 前方部、後円部の頂上は平坦に加工され、予想どおり城郭の一部として使われていたことがわかる。
 しかし、それ以外一切手は加えられておらず、鞍部は低く、くびれており、前方後円墳であることは一目して分かる。
 前方部の東を覗き込んで、びっくり仰天。尾根を遮断するように巨大な堀切が、堀切というより横堀といったほうがふさわしい。
本郭東側の石垣。結構崩落している。 本郭北東端の櫓台。これも石垣造り。 本郭南虎口。当然石垣造り。
本郭北東下の巨大な二重堀切。 倉科将軍塚古墳、後円部を見る。平坦
化され郭として使われていたようである。
古墳背後の大堀切。深さ8m、長さ50mに
及ぶ規模を持つ。
深さ8m、幅15m、長さは50mほどある。これは完全なる城郭遺構である。
 しかし、古墳にはほとんど手を付けていないのが面白い。
 普通なら古墳の鞍部に堀切を入れて2つに分断するところだが。戦国時代の人はこれが墓であると認識していたのだろうか。
 ひょっとして自分達の先祖の墓として一目置いていたのだろうか?
 この巨大堀切をこえると50m先に堀切が1箇所あり、そこが城域の外れとなる。
 尾根はアップダウンしながら、そのまま天城城方向に続いていく。
 尾根幅は結構広く、平坦な箇所がいくつもある。尾根上が軍勢の駐留場所に使える。
 天城、鞍骨方面との連絡は尾根伝いに行えば比較的容易である。
 

 鷲尾城は倉科氏が築いたと言われる。
 もちろん、総本家である清野氏の鞍骨城を中心とした一族の城砦ネットワーク、鞍骨城砦群の一部としてである。
 この城を尾根の下から攻め上がるのは困難である。
 従って一番安全な尾根先端に本郭を置いている。
しかし、尾根続きの防御は予想以上に厳重であった。

 村上氏に属した倉科氏の城は小規模であったと思うが、石垣は倉科氏が武田氏に帰属した後、川中島合戦の頃に整備されたものであろうか。
 それとももっと時代が下がって、北条、上杉の対陣が行われたころであろうか。

唐崎城(千曲市生萱)
 妻女山がある鞍骨山系から西に延びる尾根の先端部に築かれた城郭。
 城のある場所の標高は479m、麓からの比高は125m。城へは尾根先端末にある  神社裏から遊歩道が延びており、25分程度で城址に至る。 

 右の写真は鷲尾城西下から撮影した唐崎城である。
 主郭部は写真左端部、明聖砦は右端である。
 その間は水平距離で約400mほどである。
 さらに右方向に尾根を行くと天城城、鞍骨城にいくことができる。
 現在の千曲川は北を流れているが、かつてはこの城のある尾根の先端付近を流れていたと言い、尾根の先端部で東流から北流に90度向きを変えていた。
 この千曲川は天然の水堀の役目を果たしていた。雨の宮の渡しも直ぐ近くである。

 鞍骨城を中心とした城砦ネットワークの1城であり、鞍骨城や鷲尾城のように石垣を持っていたり、技巧的な構造を持っているのではないかと期待していたが、期待はずれであった。
 この城は郭を階段状に重ねただけのものであり、石垣はなく、技巧的な点も見られない。
 城域はL型をしており、本郭から尾根先端部に向けてと、南に派生する尾根に向けて、それぞれ3つ程度の郭を持つ。
 郭間の高度差は西側で5mほど、南側で3mほどにすぎない。
 また、郭も15mほどの幅しかない。
 本郭西側下の郭には井戸跡の窪みがある。
 L型の一辺の長さは80mほどに過ぎない。
 本郭も直径15m程度の広さしかない。本郭の背後、天城城側には郭が1つあり、本郭側が窪んでいる。
 堀かと思ったが、ここも井戸跡とのことである。
 その背後は一気に10mほど低くなり、堀切が1本ある。

  天城城側に歩いてみたが、本郭より180mほど行った場所に郭の切岸状のものがあるが、それ以外の城郭遺構は確認できなかった。
 しかし、尾根筋が無防備である訳がない。
2度目の訪問の時、やはり尾根筋に防御施設を発見。
 主郭部より東に400mの地点、明聖稲荷のある場所がそれである。
 稲荷のある場所は西側に2段の曲輪があり、東側が一気に深さ8mほどの堀切になっていた。
西側から見上げた主郭部。 本郭周辺は段々になっているだけ。 南尾根部の堀切。
主郭部東側の堀切と土橋。 明聖砦を東側の堀切底から見上げる。 明聖砦の上に祭られる明聖明神。
石垣があったのだろうか?
 築城の時期等は不明であり、伝承もあるが裏付けはない。
 この城が記録に登場するのは、南北朝末期、至徳4年(1387)守護代二宮氏に対する村上、小笠原、高梨氏らの反乱の時であり、城主市河頼房は二宮方に組し、村上勢に攻められて落城している。
 この市河氏がどのような経緯で城主になったのかは不明である。
 その後、城主になったに雨宮氏は、応永7年(1400)大塔合戦で活躍し、永享12年(1440)の結城合戦にも出陣している。
 その後の雨宮氏の記録はなく、清野氏に滅ぼされたのではないかといわれている。
 川中島の合戦でも、鞍骨城を中心とする城砦ネットワークの一角を担ったはずであるが、城としての整備はされていないようであり、物見程度の役割しかなかったのではないだろうか。